9.「不登校だった3年間の日々」 H・Kさん
私は私自身が不登校を経験し、現在は大学院に在籍している学生である。中学校の入学2日目から不登校になり、結局中学校では一度も学校復帰することはなかった。中学卒業後は通信制高校であるK高校に入学し、中学校とはうってかわって無欠席で卒業、大学に進学した。私の体験談として、不登校のはじめから進路決定までをまとめていこうと思う。
不登校になった当初は、学校に行かないでいることだけで精一杯で、それからのことは何も考えられなかった。私を学校に行かせるために毎朝起こそうとしたり、制服を着せようとしたり、車に乗せようとしてくることから逃げるのに必死だった。その一方で家族を本気で怒らせないように細心の注意を払って、怒る声や溜息は聞きながら耐える必要があった。さらに、自分自身の中でも激しい自己嫌悪が湧いてきて、私の精神を消耗させ続けていた。不登校でいることは途轍もなく大変な行為で、一日何もしていないのに、常に全神経を尖らせているような状態だった。それでも、絶対学校には行けないと確信していた。
1ヶ月弱が過ぎると、家族は私が家にいることに慣れてきた。制服を着ることを強いられることはなくなり、学校の話をされることも減った。教室へ入れない生徒向けの別室登校や保健室登校を先生に提案され、試してみるもすぐに行かなくなるといったこともありつつ、私は不登校として、家で落ち着いた生活ができるようになった。
不登校中の生活としては、基本的に一日中家から出ずに過ごしていた。昼間に人と出会うと絶対に変な目で見られると思い込み、それがとても怖かったため、平日の昼に遊びに出かけることは決して出来なかった。休日ですら、学生らしき集団を見ると気持ちがすくんだ。当時の私は、不登校であることを酷く負い目に感じており、それが対人恐怖に繋がっていたのだろうと思う。同級生が勉強をしている時間に私は何をしているのだろう、と自己嫌悪に苛まれることもしばしばあった。自己嫌悪に苛まれないために、何も考えず時間を潰せる方法を探した結果、ずっとテレビを見て過ごすようになった。勉強については、私は当初から大学進学を志しており、不登校になってからも勉強へのモチベーションがあった。しかし、勉強しようにも、何を、どのように、どこまで勉強したら良いか全く分からず、数か月間は全く勉強をしていなかった。ある日、定期テストの範囲をまとめたプリントから、同級生が学校で何を習っているかを知った。初めて私に目標が与えられた瞬間だった。それから、一人で少しずつ勉強をするようになったが、同級生が学校で習っているような「普通」の勉強ができる訳ではなかった。教科書は分かりにくい、ワークは回答と解説があってやりやすい、国語は漢字の勉強以外諦めるなど、試行錯誤するうちに不登校ならではの勉強法が確立されていった。そうして最終的に、1日5時間勉強する程になった。
私は学校復帰こそできなかったものの、学校との繋がりは常にあった。いつごろからか、私は学校の図書室に出入りするようになった。他の生徒が来ないことが良かったのか,図書室は私が学校の中で唯一過ごせる場になり、1日2時間,週2,3回ではあったものの、本を読んだり、折り紙をしたり、テストを受けたりしていた。スクールカウンセラーに通うようにもなった。不登校であることにより友達関係もなく、家族とも上手くコミュニケーションが取れなくなった私にとって、ただの雑談も家族への愚痴も、どんな話でもできる人は本当に貴重な存在だった。2年生になってからは、学校との繋がりがさらに増えた。先生の計らいで、私が作ったお菓子をクラスに配ってもらえたこともあった。クラスの同級生にとっては、不登校生徒からお菓子を送られるという良く分からない状況だったと思うが、私の存在を無くさないための助けにはなっていたのかもしれないと思う。宿泊学習にも1日だけ参加できた。それでも、教室に入ることは出来なかったし、学校に行くこと自体も安定してはいなかった。前述した図書室登校も、1、2カ月定期的に通っては休んでの繰り返しだった。定期的に通っていた後また登校できなくなると、今度こそ、と期待していた家族には当然ながら落胆の色が見え、怒られることも多かったが、不登校になった最初の頃程ではなかった。家族は私が家にいることに慣れたし、私も自分のペースに気付き、家族に怒られることにも慣れたのだった。そんな登校の調子は3年生になっても変わらなかった。しかし、学校との距離感は確実に縮まっていた。特に、自分のクラスへ参加するようなことが増えた。修学旅行に参加することを決め、班別活動の打ち合わせのために初めてまともに教室に入った。修学旅行本番では迷子になりかけるなどのアクシデントもありながら、全ての日程で他の生徒と同じように参加することができた。また、数回ではあったが、クラスの授業や帰りの会を廊下で見学するようになった。
進路について。私は元々大学進学を志し、家から近い地元の進学校を志望していた。3年生の後期頃、担任の先生から成績評価と進路についての話を受けた。内申点はほぼ無いこと、私はテストだけは受けていたため成績だけは出せるが,今の成績では志望校は難しいことを丁寧に説明された後、先生から通信制高校であるK高校を紹介された。K高校は通年募集をしていたことから、当時の私は「こんな高校があるなら、どうなっても進路はなんとかなるな」と思った。そして、実力試しを兼ねて志望校の受験をしてみること、不合格だった場合はK高校を目指すこと、をその場で先生に宣言した。K高校という安心材料を得て、その後は気楽にのびのびと過ごすことが出来た。それが功を奏したのか、元々の志望校の試験日には朝から制服を着て高校に行き、同級生と一緒に一通りの試験を受けることができ、家族や先生を驚かせた。結果的に志望校は不合格であったが、その頃にはK高校へ気持ちが傾いていたため、すぐにK高校へと訪問し、志願理由書などを提出、面接を経て、1か月もしないうちに入学が決定した。
不登校であった当時の私にとって、中学校の3年間は決して楽なものではなく、辛く苦しい時間であった。今振り返っても2度と体験したくないと思う。しかし、私は不登校になったことを後悔したことはない。当時の私には不登校が最善の選択であったし、自分に出来る最大限の生き方だったと思う。それに、不登校経験から得られたものもたくさんある。本当に無理な時には逃げても良いということを体験として学べたこと、不登校で辛い状況からここまで頑張れていると自分を肯定できるようになったこと、など不登校から得られたものは、私の心の支えになっている。今の私は不登校経験がなくては存在していないし、あの日々があってこその私なのだ。
不登校になった当初は、学校に行かないでいることだけで精一杯で、それからのことは何も考えられなかった。私を学校に行かせるために毎朝起こそうとしたり、制服を着せようとしたり、車に乗せようとしてくることから逃げるのに必死だった。その一方で家族を本気で怒らせないように細心の注意を払って、怒る声や溜息は聞きながら耐える必要があった。さらに、自分自身の中でも激しい自己嫌悪が湧いてきて、私の精神を消耗させ続けていた。不登校でいることは途轍もなく大変な行為で、一日何もしていないのに、常に全神経を尖らせているような状態だった。それでも、絶対学校には行けないと確信していた。
1ヶ月弱が過ぎると、家族は私が家にいることに慣れてきた。制服を着ることを強いられることはなくなり、学校の話をされることも減った。教室へ入れない生徒向けの別室登校や保健室登校を先生に提案され、試してみるもすぐに行かなくなるといったこともありつつ、私は不登校として、家で落ち着いた生活ができるようになった。
不登校中の生活としては、基本的に一日中家から出ずに過ごしていた。昼間に人と出会うと絶対に変な目で見られると思い込み、それがとても怖かったため、平日の昼に遊びに出かけることは決して出来なかった。休日ですら、学生らしき集団を見ると気持ちがすくんだ。当時の私は、不登校であることを酷く負い目に感じており、それが対人恐怖に繋がっていたのだろうと思う。同級生が勉強をしている時間に私は何をしているのだろう、と自己嫌悪に苛まれることもしばしばあった。自己嫌悪に苛まれないために、何も考えず時間を潰せる方法を探した結果、ずっとテレビを見て過ごすようになった。勉強については、私は当初から大学進学を志しており、不登校になってからも勉強へのモチベーションがあった。しかし、勉強しようにも、何を、どのように、どこまで勉強したら良いか全く分からず、数か月間は全く勉強をしていなかった。ある日、定期テストの範囲をまとめたプリントから、同級生が学校で何を習っているかを知った。初めて私に目標が与えられた瞬間だった。それから、一人で少しずつ勉強をするようになったが、同級生が学校で習っているような「普通」の勉強ができる訳ではなかった。教科書は分かりにくい、ワークは回答と解説があってやりやすい、国語は漢字の勉強以外諦めるなど、試行錯誤するうちに不登校ならではの勉強法が確立されていった。そうして最終的に、1日5時間勉強する程になった。
私は学校復帰こそできなかったものの、学校との繋がりは常にあった。いつごろからか、私は学校の図書室に出入りするようになった。他の生徒が来ないことが良かったのか,図書室は私が学校の中で唯一過ごせる場になり、1日2時間,週2,3回ではあったものの、本を読んだり、折り紙をしたり、テストを受けたりしていた。スクールカウンセラーに通うようにもなった。不登校であることにより友達関係もなく、家族とも上手くコミュニケーションが取れなくなった私にとって、ただの雑談も家族への愚痴も、どんな話でもできる人は本当に貴重な存在だった。2年生になってからは、学校との繋がりがさらに増えた。先生の計らいで、私が作ったお菓子をクラスに配ってもらえたこともあった。クラスの同級生にとっては、不登校生徒からお菓子を送られるという良く分からない状況だったと思うが、私の存在を無くさないための助けにはなっていたのかもしれないと思う。宿泊学習にも1日だけ参加できた。それでも、教室に入ることは出来なかったし、学校に行くこと自体も安定してはいなかった。前述した図書室登校も、1、2カ月定期的に通っては休んでの繰り返しだった。定期的に通っていた後また登校できなくなると、今度こそ、と期待していた家族には当然ながら落胆の色が見え、怒られることも多かったが、不登校になった最初の頃程ではなかった。家族は私が家にいることに慣れたし、私も自分のペースに気付き、家族に怒られることにも慣れたのだった。そんな登校の調子は3年生になっても変わらなかった。しかし、学校との距離感は確実に縮まっていた。特に、自分のクラスへ参加するようなことが増えた。修学旅行に参加することを決め、班別活動の打ち合わせのために初めてまともに教室に入った。修学旅行本番では迷子になりかけるなどのアクシデントもありながら、全ての日程で他の生徒と同じように参加することができた。また、数回ではあったが、クラスの授業や帰りの会を廊下で見学するようになった。
進路について。私は元々大学進学を志し、家から近い地元の進学校を志望していた。3年生の後期頃、担任の先生から成績評価と進路についての話を受けた。内申点はほぼ無いこと、私はテストだけは受けていたため成績だけは出せるが,今の成績では志望校は難しいことを丁寧に説明された後、先生から通信制高校であるK高校を紹介された。K高校は通年募集をしていたことから、当時の私は「こんな高校があるなら、どうなっても進路はなんとかなるな」と思った。そして、実力試しを兼ねて志望校の受験をしてみること、不合格だった場合はK高校を目指すこと、をその場で先生に宣言した。K高校という安心材料を得て、その後は気楽にのびのびと過ごすことが出来た。それが功を奏したのか、元々の志望校の試験日には朝から制服を着て高校に行き、同級生と一緒に一通りの試験を受けることができ、家族や先生を驚かせた。結果的に志望校は不合格であったが、その頃にはK高校へ気持ちが傾いていたため、すぐにK高校へと訪問し、志願理由書などを提出、面接を経て、1か月もしないうちに入学が決定した。
不登校であった当時の私にとって、中学校の3年間は決して楽なものではなく、辛く苦しい時間であった。今振り返っても2度と体験したくないと思う。しかし、私は不登校になったことを後悔したことはない。当時の私には不登校が最善の選択であったし、自分に出来る最大限の生き方だったと思う。それに、不登校経験から得られたものもたくさんある。本当に無理な時には逃げても良いということを体験として学べたこと、不登校で辛い状況からここまで頑張れていると自分を肯定できるようになったこと、など不登校から得られたものは、私の心の支えになっている。今の私は不登校経験がなくては存在していないし、あの日々があってこその私なのだ。
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