なら思春期・ 不登校支援研究所

1.「寄り添った10年目の想い」Aさん

  この春から大学生となった娘は、小学校3年生の3学期から帰宅すると軽い頭痛が始まるようになりました。心配でいろいろ検査するも問題なく、4年生はそれほど頭痛も起きず、食は細く痩せ気味だなと思いながらも、精力的に英会話や鼓笛隊の習い事に通っていたので気にならなくなっていました。ところが4年生の3学期頃から、帰宅すると強い頭痛で夕飯も食べず朝まで寝込んでしまう日が頻繁に起こるようになり、市販の頭痛薬も効果なく、頭痛外来で大人用のきつい偏頭痛薬を処方されました。そのせいでまた頭痛が起こる副作用を併発していたことに気づかず、その後2年近く飲むことになります。
 5年生で大人びた女子グループから嫌がらせを受けるようになると、朝まで寝込むような頭痛を繰り返すことが増えていきました。さらに強い吐き気や倦怠感で食べ物が全く食べられなくなり、2週間で3キロ近く体重が減りました。点滴治療に通いましたが、とうとう水さえ1滴も飲み込めない状況に陥りました。これだけひどい症状は脳腫瘍かもしれないと大阪の脳外科を紹介されました。しかし、MR検査で異常はなく、原因はわからないまま夏休みを終えてしまいました。それでも、2学期に向けて体力が落ちないようにと、私は涼しくなる真夏の夜を待って散歩に連れ出すなど、スパルタな対応をやめることはできませんでした。体調が悪い子どもを連れ出すなんて、一歩間違えれば虐待です。それさえ判断できないほど、私自身追い詰められていきました。2学期になると朝も強い倦怠感で起きられず、毎日私か祖母が送迎をする大変な生活になっていき、家族はますますストレスが溜まっていきました。学校では、給食や運動会の練習などいろいろご配慮いただきましたが、それも娘には特別扱いに思えて辛かったようです。
 11月のある日、起きてこない娘が布団の中から、「学校に行きたくない」と、この時初めて自分の想いを口にしました。覚悟はしていましたがショックで、主人と実家の父に相談すると、「今行かなくなったら、もう学校には2度と戻れなくなる」と不安をあおられました。心の病気かもと冬休み前に子どもの心のクリニックに一緒に行きましたが、助けにはなりませんでした。結局娘は、冬休みには全く食べられなくなり、3学期はとうとう一度も学校へ行きませんでした。
 そして、6年生になり娘の不安はさらに増し、夜中にとめどなくあふれてくる唾液を飲み込めずに眠れず、毎朝青白い顔で起きてきて、目が覚めたとたん吐き気、という日が続きました。それでも、行ける日は数時間学校に行き、頑張っていました。しかし、6月頃から又症状が悪化し、とうとう小児科に入院することとなりました。そこで、重度の起立性調節障害と診断されます。そこからが地獄でした。学校に行けないことで、本来安心すべき自宅も不安で怖い場所となり、退院することさえできず、中1の2月まで入退院を繰り返すこととなります。勉強したり運動したり友だちと遊ぶという当たり前の生活に戻る以前に、退院して自宅に戻り生活ができるようになるのが目標という先の見えない長い長いトンネルの始まりでした。
 入院中の娘は不安障害も発症し、夜、ベッドのそばに私がいないと不安が高すぎて症状がきつくなるため、昼間は祖父母か主人が付き添いをし、私は1年半近く自宅で眠ることなく病室の簡易ベッドに寝泊まりし、精神的にも肉体的にも、限界の状態が続きました。私は仕事を辞めざるを得ませんでした。娘は不安感から点滴を外すことができなくなり、その状態は、精神的に、おなかの中にいる赤ちゃんとお母さんをつなぐへその緒だということを知りました。私は、娘を赤ちゃんの状態から育てなおすことになったのです。さらに、対人恐怖症になった娘はベッドとトイレの移動しかできず、24時間家族がそばに付き添わなければならないまさに赤ちゃんの状態でした。また、家族以外の他人の前で食べ物を飲み込むことができず、体重が30kg切る寸前まで痩せ細り、入院が数ヶ月過ぎた頃、「食べることがこんなに辛い、もう死にたい」とまで言い出し、いっぱいいっぱいだった私もうつ状態になっていきました。娘も私も、入院先の精神科の先生とそれぞれカウンセラーの先生にお世話になる状態まで落ちてしまいました。
 私自身が病気になったため、娘は、退院することを余儀なくされましたが、そこから大和郡山市にある学科指導教室「ASU」に行けるようになるまで、娘が一番、孤独と、恐怖と、不安と、戦うことになります。症状が出るため外出もできず、ひきこもり、寝込んでは起きて、ゲーム三昧。漫画を描く・漫画本を読みあさる毎日でした。食事は、私の手作りはほぼ食べられず、コンビニの決まった具のおにぎりとお惣菜パン、アイス、マクドナルドのパンケーキ、スナック菓子、チョコと異様に偏った食生活で、買い出しに行くことは、ストレス以外のなにものでもありませんでした。娘はその頃、ストレスで物を投げまくったり叫んだりと、ようやく苦しさを体で表すようになってきました。体調がましな時、「ASU」の先生に家庭訪問をしていただいていましたが、私はとにかく待ちました。そして、中2の1月、とうとう泣きながら、「ASUに行きたい」と自分から訴えてきたのです。しかし、そこから「ASU」の教室内に完全に入れるようになるまでほぼ1年近くかかりました。
 無事、通信制高校に入学しましたが、完全に学校の送り迎えをしなくてよくなったのは高3になってからでした。ようやく一人で、電車で通学できるようになり、自分のしんどさとうまく付き合えるようになりました。通信制高校では、年上の友人がほとんどで、生徒会活動で副会長も務め、学校始まって以来の一番の出席率で通学し、大学にも無事合格でき、高3の1年間で驚くほど成長しました。
 最近娘と、この苦しかった話を時々します。振り返ってみると、4歳の時に大阪から奈良へ引っ越し、慣れない環境の中、さらに私の仕事の忙しさのなかでも、自然と生き物が大好きな娘は近所の友だちと遊びまわり、虫を捕まえても絶対に殺したりせず、大事に扱い世話する優しい子でした。小学校で学童に入り、真っ黒に日焼けして元気いっぱいに遊んでいましたが、友だちには遠慮がちで気を使って合わせるようなところは多々ありました。私は、「一人っ子だから」と言われるのが嫌で、人一倍しっかりしてほしいと娘に必要以上に厳しくし、娘を認め、褒めることもなかったと、今になって寂しげな娘の姿を想うことができます。娘自身が、どうして自分はあんな状況に陥ってしまったのかと調べ、自分が人一倍過敏な子ども「HSC」だったということを教えてくれました。「HSC」とは、非常に繊細なために、他人の雰囲気や顔色、表情を敏感に読んだり、自然環境の微妙な変化に気づいたり、人よりも身体全体であらゆる出来事を敏感に正確に感じ取って生活し続けるため、常にフル回転で、疲弊しやすいのです。思慮深く、慎重なので無茶をしない一方で、大きな音や大量の情報には、すぐ圧倒されて疲れ果ててしまうのです。言葉で反論できない良い子ほど、体調悪化で不登校になります。でもそれは、自己防衛で、非常に大切なことだと今は思います。もし、我慢し続けて大人になっていたら、それこそ取り返しのつかない状態に追い込まれることになっていたかもしれません。
 我が家の経験が参考になるかはわかりません。私自身、本当にしんどかった時期、他の方の体験談を素直に聞くことができなかったことを思い出します。でも、我が家もトンネルを抜けたわけではなく、今もまだ戦っています。親であればどなたもそうだと思いますが、子どものことは心配が尽きません。娘は完全に症状がなくなったわけではありません。ただ、ここまで乗り越えてきた経験があるから、子どもの成長を見てきたから、時間はかかってもきっと前に進んでいけると思えるようになったのです。
 どうか、お子さんが「学校に行きたくない」と言えば休ませてあげてください。そして、親がさせたいことを強要するのではなく、お子さん自身が「やりたい」「行ってみたい」と言い出すまでは、つらいですが・・・、親はじっと我慢です。それに早く気づき対応していれば、うちの子のように、体調悪化で入院するような状態になることはなかったと思います。お父さんお母さんご自身が不安でしんどくて、お子さんについ指示したり責めたりするのではなく、その時こそ、親の会等助けてくれる場を利用し、相談したり吐き出したりすれば、少しは気持ちが安らぐと思います。娘の高校の生徒は、小中学校で不登校または不登校ぎみだった生徒、全日制高校が合わなくて編入してきた生徒、10代で妊娠出産して高校をやめた生徒、現在妊婦さん、おばあちゃん、おじいちゃんなど様々な理由で高校を卒業していない大人の生徒さんもいます。義務教育ではない高校・大学は、何歳からでも入り直しができるので、不登校の間は勉強の心配はしなくていいと思います。娘が初めて塾に行きだしたのは、高2の11月でした。4ヶ月で中学3年間の英語をやり遂げました。なので、勉強の心配より、お子さん自身が家から出たいと思うまでは、自宅だけは安心していられる場所にしてあげてください。そして、家族以外の大人に助けを求めてください。つながってさえいれば、いつか本人自身が抜け出そうとします。学校に行けない自分を責めて、一番辛い思いしているのは子ども自身です。子どもって、やる気になったら乾いたスポンジが水を吸うように、信じられないスピードでどんどん学習していきます。わが家もそれをこの目で見ました。焦らず、ひたすら待つ。しんどいですが一番大切だと、痛感させていただきました。親が決して多くを望まず、周りの子どもと比べずに、今日やれることをして淡々と過ごし、助けてくれる方々や今日も無事終われたことに感謝し、一歩進んで二歩下がる日が何年もあっても、なんとかなっていくものだと、わが子を信じるきっかけになればと思います。
 今、新型コロナウイルスの影響で、娘が楽しみにしていた大学生活もオンライン授業で参加している状態ですが、課題に取り組み、自分で運動をして体力維持に努めています。エネルギーが溜まったことはもちろんですが、多くの挫折を経験したことをバネに精神的にも肉体的にも本人自身が成長したことで、自律神経やホルモンバランスが崩れて起こる症状には今も悩みながら、上手に付き合っていける心の強さを持ってくれたのだと、わが子ながら頭が下がる思いです。これからも生きていれば苦しいことが必ず起きます。しかし、あのつらさを思えば、きっと乗り越えていってくれると信じてやみません。
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