なら思春期・ 不登校支援研究所

3.「子の不登校と母の気づき」  Oさん

 長女が小学5年生の時、不登校になりました。4年生の二者懇談の時、自信たっぷりに子育てをしていた私は、担任の先生から「とてもいい子です。でもおうちでも気を抜いていないようなら、いつ張りつめた糸が切れるか心配です」と言われました。その「とてもいい子」だった娘が、5年生になって「給食がまずい」「誰かが私のこと睨んでいる」と言い出しました。友だちとのトラブルも多少あったようで、先生に相談もしましたが、「このくらいの年頃にはよくあることなので、様子をみましょう」と言われました。ママ友からも「みんな通る道やで。大丈夫や」という答えが返ってきて安心していました。
 そしてプール開きの日、夏に冬布団をかぶったまま、娘は部屋から出てきませんでした。私は叱って、叩いて、引っ張って、無理やり学校へ連れて行きました。鬼のような形相で門のところで激しくやり取りしていると、先生が走って来られて、「お母さん。落ち着いてください。今日は一旦帰りましょう」と言われました。私は「そんな甘いことを言ってどうするんや」と腑に落ちないまま、娘と家に帰りました。その日から、娘は上目遣いで私を見るようになり、布団から出てこず、これ見よがしに自室の壁を叩きます。「私なんかいててもしょうがない!死んだ方がましや!」ドン!ドン!という音に耳を塞ぎながら「不登校」という言葉が私の頭の中にちらつきました。当時、私の中では、不登校とは新聞やテレビでしか聞かない別世界の出来事で、自分の身の上に起きていることに相当なショックを受け、認めるわけにはいきませんでした。これまでの子育て、自分自身を全否定されている気持ちでした。私はずいぶん自分を責め、他人を恨みました。そして原因や犯人捜しをし、それらを取り除くことばかり考えていました。
 そんなある日、先生からカウンセリングを勧められました。何故親である私がカウンセリングを受けなければいけないのか?私のイメージするカウンセリングとは「あなたの子育てはまちがっている。ああしなさい。こうしなさい」と指導されることだと思っていました。でも、藁にもすがる思いで向かったカウンセリングルームでの体験は、想像とは全く違ったものでした。ゆったりしたソファーに座り、子どものことから普段の生活まで、堰をきったように喋ってしまった私に対して、先生はにこやかにただ黙って耳を傾けてくださいました。そして最後に一言、「そんでよろしいがなぁ~子どもさんに寄り添ってあげてください」と本当に一言だけアドバイスをくださいました。最初は分からなかった“認め”、“寄り添う”の意味が相談の回数を重ねているうちに、今自分がしてもらっていることだと気づきました。『あぁ、私は子どもの話を聴いているつもりだったけれど、自分の価値観でしか子どもを観ていなかったんだ』と思いました。カウンセリングから帰宅後の私には、娘は穏やかな顔で話しかけてきます。何故なのか本人に尋ねると、「だって、帰ってきたときのママは優しい顔をしてるから」と遠慮がちに、すまなそうな顔をして答えました。自分で鏡を見ても気づかない表情を、子どもは敏感に感じ取ります。きっとこの時、私の心に“ゆとり”が生まれていたのです。その頃から少しずつ、娘は私に心を開いてくれたような気がします。不登校は突然おこったのではなかった。我が家の場合、娘の心に徐々に積もっていたモヤモヤを私が感じ取ることができなかったために、娘が送り出していた“助けてというサイン”が不登校という行動に現れたのかもしれません。
 夫は、仕事で疲れているのに毎晩夜遅くまで話を聴いてくれました。また、子どもを理解するために、一緒に講演会に行ったり、本を読んだりして、私と気持ちを共有してくれました。そして「お前の言ってることは正しい。でも教科書やねん。人間の温かみが足りないねん。自分の価値観やものさしを押し付けたらあかん」と言って、学校に行ってないだけで、何の罪もない娘を変わらずに愛していました。同居していた夫の両親も親戚も友だちも、普通に接してくれるのが助かりました。結局、今から思えば、学校に行ってないことを一番意識してパニックになっていたのは私だったのです。
 担任の先生には「教室から娘の存在を消さないでほしい」とお願いしました。私は娘のいない参観も懇談も出席し、学級懇談会では娘の様子を話しました。学校に行くと、親も子どもたちも声をかけてくれました。担任の先生は、いくら娘が素っ気なくしても、いつも明るく「戻って来い!」と両手を広げて待っていてくれました。相談室の先生は、「かまへん、かまへん、ゆっくり休み」とその時の娘を温かく包んでくれました。校長先生はいつも気さくで「おかあちゃん!もうちょっと身を構いなはれ。お母さんが綺麗にしていると子どもは嬉しいもんやで」と声をかけてくださいました。確かにその時の私は、頭はボサボサ、よれよれのTシャツ・ノーメイク。なんだか、その一言に気持ちが凛としたことを覚えています。
 娘の心には少しずつエネルギーが充電され、気の向いた時には私服で別室登校ができるようになりました。ある日は門まで、またある日は下駄箱で足が動かなくなる。でも、もう無理強いする頑なな私はそこにはいませんでした。それでも娘が別室にいる間、元気に運動会の練習をしている多くの子どもたちの様子を窓から見ると「あの中で普通に過ごすことはそんなに難しいことなのか?」と胸が締め付けられました。廊下で泣いている私に、通りがかりのたくさんの先生が優しく声をかけてくれました。クラスメイトは、別室にも自宅にもよく来てくれました。
 家族・先生・友達・家庭教師…すべての環境と娘の心のタイミングが合った時、少しずつ登校できるようになりました。小学生だったから周囲とこのような関わりを持ち、登校につながったのかもしれません。思い返せばたったの9か月。でもその9か月間は親子共にずいぶん泣きました。親をやめたい、逃げたいとも思いました。年子の長男への気遣い。また、まだ何も分からないと思っていた1年生の次男に「ママは、にぃとねぇがおったら、僕はおってもおらんでもどっちでもええねんな」と言わせてしまったことはショックでした。そのとき私は「ママは体は一つやけど、ハートは三つあるねんで!」と次男を抱きしめて号泣。一喜一憂。とにかくいっぱい泣いた9か月間でした。
 登校し始めても、本人は相当頑張っているらしく、一気に他の子と同じようにはいきません。燃費が悪い自動車のようなもので、不安な時は休んだり落ち込んだりを繰り返し、家に帰ると睡眠やわがまま、幼児返りでエネルギーを補給して、またゆっくり歩きだしました。疲れて休む間隔がだんだん短くなり、自分と折り合いをつけられるようになった高校生ぐらいから、急速に精神的に成長し、実年齢に追いついてきました。
 不登校に限らず、子どもの問題行動は誰にでも起こりうることです。インフルエンザや骨折などは気軽に打ち明けられるし、予防法や対処法も公に話すことができます。そして回復しているのも目に見えて分かります。しかし、メンタルな問題に関しては、当事者も周りも口をつぐみ、出口が見えません。誰が悪いわけでもないのに、一番助けが必要な問題なのに、打ち明けられず、まるで親子だけが回転ドアから抜け出せないような状態に陥ってしまいます。今は、大人にも子どもにも不安が溢れている社会です。不登校の子も、いじめる子も、暴力をふるう子も、虐待をする親も…安心できる居場所、信頼できる人がいれば心がざわつかないはずです。私は自分の体験から、不安を取り除くためには、安心を少しずつ溜めていくことだと感じました。不安を感じた時はぜひ、誰かを頼ってください。
 不登校親の会に初めて来てくださった保護者の多くは、疑心暗鬼の面持ちです。しかし、同じ境遇からすぐに打ち解け、少し安心すると涙がこぼれます。そして、少しずつ自分に溜まっていた不安を吐き出して、誰に何を教えられるわけでもなく、自分で元気を取り戻します。その元気と安心は子どもに伝染します。
 今振り返ってみると、娘にはとてもつらい思いをさせましたが、私はこの体験をして良かったと思っています。娘のおかげで一度壊れたように思えた家族がより深い絆を取り戻したからです。どんな失敗をしても、命さえあれば何度でもやり直しができること!いえ、それ以上に得るものがあることを体験しました。学校へ行ってなくても、朝はくる。お腹は減る。ご飯が食べられる。
 長女は30歳になりました。4人の子どもの母親です。孫が空腹・排泄・かまって欲しいという欲求だけをママにストレートに伝える。それに応える娘の穏やかな表情を見ながら子育ての原点を感じています。そして、私は相変わらず子どもたちに良かれと思って口出しして、鬱陶しがられて、胸がキューッとなる生活を…きっと一生続けていくのだろうなぁ。
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