なら思春期・ 不登校支援研究所

8.「不登校から高校球児への道」 Yさん

  もう10年以上も前、長男が中1になった4月下旬、学校で突然、理不尽なケガをさせられた。そして、長男は学校に行かなくなった、学校に行けなくなった。無理やり学校に連れて行って、さらに状況を悪化させてしまった。
大好きな給食だけ食ベに行けばいい、野球部の練習だけ行けばいい、と色々と言っても状況がかわるはすがない。
 長男にとって、安心安全でない学校にいけるはずもなかった。1年生のおわり、転校の挨拶に長男を連れて学校に行った。そのときに目の当たりにした光景!駐車場から職員室に入るまでのわずかな時間、後ろばかり気にしながら歩く挙動不審な長男の姿をみて事の重大さにいまさらながら気がついた!!長男の心の闇を垣間見たような気がした。
 長男が一念発起して1度だけ学校に行ったことがある。しかし、先生の心無い言葉や、同級生のからかいを受け、次の日からまた行かなくなった。
学校に行かなくなると、昼夜逆転し、ご飯をじぶんで夜中に作って食べ、ゲーム三昧、読書三昧。
 生活のために働かなければならない私は、そんな長男と一緒にいてあげることすらできず、仕事に行っている間の長男の居場所もみつけられなかった。よく気のきく優しいお兄ちゃんは、私が寝込むと、いつものように私を気にかけてはくれなかった。長男はそんなにも追い込まれているのだと思うとつらかった。
 当時、米穀店をひとりで切り盛りしていた私の父からそんな長男をみかねて、手伝いに来て、と連絡が入った。長男はおじいちゃんの運転する車の助手席に乗り、配達や買い物のお手伝いをした。長男の生活拠点はおじいちゃんちになった。父は、中二から長男をこちらの中学に転校させなさい、と言った。転校した校区には、画期的なシステムの適応指導教室があった。転校後、二学期になってから行き渋り始めた長男はその教室に行くことになった。
 長男とどう向きあってよいのか迷路に入りかけていたころ、長男の3歳上の長女が、突然お友達を連れて三人で帰ってきた。

 高校の部活の同級生の幼なじみが野球をしたいらしい、と。背の高いほうの高校生が長男の練習相手をかってでてくれた。
 また、彼等は長男の勉強も見てくれた。長男にとっても、次男にとっても、頼もしい優しいお兄ちゃん達が一度にできた。長女の思いやりがうれしくてたまらなかった。
 夏に体調を崩した父が癌だとわかった。抗がん剤治療と放射線治療。父はみるみるうちに痩せて衰弱し入院を何回かしたあと亡くなった、中二の10月に。私達娘にとっては昭和10年生まれのヘンコな父、孫たちにとっては物わかりがよくて気前のよいおじいちゃんだった。
 中三の夏、テレビで高校野球の奈良県大会をみた長男が、高校野球をするために進学すると宣言した。なんでも、テレビでみたすごい投手を打ちまかしたいからだという。私は受験準備を始めた。でも長男の昼夜逆転やゲーム中心の生活習慣はかわらない。それでも、父の四十九日の法用のあと、私学のオープンキャンパスと部活体験に連れていった。私学がだめなら、十津川高校で寮生活をしながら野球をするんやで!と長男と約束した。
 十津川高校のオープンキャンパスにも参加した、二時間あまりバスに揺られて。受験まで半年あるが、生活スタイルは変わる気配はなかった。
 3月の高校入試前日、十津川の民宿に一緒に前泊し翌日の入試に備える。翌朝、当たり前のように民宿手作りのお弁当を持ってすんなりと校舎に入る長男。すでに何かが変わり始めていた。それに鈍い私はきづけていなかった。
 お陰さまで無事合格し、入学準備にはいる。入学式のため、前泊する。長男の新生活用品をめーいっぱい軽自動車に積んで高田を出発した。
 高田を出発する直前にフェンシングの太田くんヘアーにした長男、180センチ100キロちかい巨漢、目の前にキラキラかがやいて凛々しい長男がいた。
入学式のあと、荷物を自室にいれたあと昼食もそこそこにグローブを持ってグランドにかけていった。久しぶりにみるユニフォーム姿の長男。晴れ晴れとした笑顔の長男。自ら道を切り開いてここに辿り着いた。
 そして長男の高校生活への快進撃が始まる。寮生活、学業、野球部。まるで、別人、いいえ、これが長男の本来の姿、あるべき姿を取り戻した。
 期せずして、次男も中二から不登校になり、中三から転校して適応指導教室に。そこで高校生活に必要なことを学び、兄たち野球部のメンバーが待つ十津川に向かった。前日練習試合に参加したので、入学式当日の早朝、軽自動車に荷物やさっきまで寝ていた布団を詰めて。

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